山河破れて国あり 五木寛之さんの言い分

.opinion 3.11

日経新聞8月6日に作家の五木寛之さんの「山河破れて国あり」というのが出ていたそうだ。この記事をネットで紹介した人たちをフォローしてみると…。

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(以下、記事の引用は日経新聞2011/08/06を紹介した人たちからの孫引きによるものです)

「五木寛之 日経」とかググれば、今ならたくさん出てきます。そこで、彼の言い分は断片的に知ることができます。

まず、今回の311は『第二の敗戦』であること。66年前の敗戦は『国破れて山河あり』だったけど、今回私たちに突きつけられているのは、『山河破れて国あり』という現実ではないのか、という意見です。

この視点は見事ですね〜。思わず膝を打ちました。

また、安全を強調する政府の発表については五木さんは先の敗戦時の朝鮮半島からの引き揚げ体験を持ち出して説明しています。少し長いのですが、紹介しましょう。

「敗戦の夏、中学一年生で平壌にいた。当時ラジオは『治安は維持される。市民は軽挙妄動をつつしみ、現地にとどまれ』』と繰り返し放送していた。

それが唯一の公の情報だった。平壌の駅は家財道具を積んで38度線へと南下する人であふれていたらしい。ところが国策に沿って生きていた私たち家族は、何の疑いもなく現地にとどまっていた。 やがてソ連軍が侵攻してくる。自宅は接収される。着のみ着のままで追い出される。敗戦1カ月で母を亡くした。難民倉庫のようなところで引き上げを待ったが再開されない。冬は零下20度を下回る寒さで、毎晩襲ってくるソ連軍の暴行と飢餓と不安の中で約2年間なすこともなく、日を過ごした。この時の教訓が大きな後遺症となって自分の中に残っている」

氏の云いたいことは、「国が公にする情報は、一般人がパニックになることを恐れたうえでの、一つの政策」であり、「だから、政府の情報や数値や統計ではなく、自分の動物的な感覚を信じるしかない」ということでした。311を振り返ってみれば、五木氏の言い分の妥当性は明らか。

今回、敗戦時の大本営発表と同じように多くの人が騙されてしまいました。私自身にしても、312の時点でヤバイことが起きているのをうすうす感じていながら、「できるだけ遠くに」と書いたのは3月19日のことで、あまりに楽観的だった・甘すぎたというべきところです(自省)。311から約1週間の甚大な被曝さえ避けることができていれば状況は全く違っていたのにと思うと残念至極です。

五木氏曰く、

「第一の敗戦の時はまだ明日が見えた。今は明日が見えない。だから今この瞬間を大切に生きる。国は私たちを最後まで守ってはくれない」

とのこと。重い言葉ですが、これもその通りだと云わざるを得ません。

古今東西史実を引くなら、支配者の利益を国益と称して民をだましてきたのはいつものこと。蛇足ながら、戦時にソ連と裏交渉し国民を朝鮮半島に留まるように命じた関東軍参謀本部の瀬島龍三らが、戦後中曽根といっしょになって原子力発電推進の立役者となったのは歴史の偶然なのでしょうか。それとも「国益」を優先する人たちには原爆製造のための原発ということで必然だったのか。シベリア抑留から311原発事故に連なる話に震撼するものがありますね。