ヒロシマ・ナガサキとフクシマ その1

.opinion 3.11

封印されたヒロシマ・ナガサキ  高橋博子 (凱風社 2008)

東電・福島第一原発事故が起きて、ヒロシマ・ナガサキのことが時々説明の俎上に上ります。曰く、低レベル被曝の被害はほとんどなかったとか、遺伝障害は報告されていないとか等々。ホンマ? 御用学者やそれに連なる者たちの裏側を見ておかないとアカンなぁ、と思っていて見つけたのがこの本。ヒロシマ・ナガサキって、やっぱりきちんと調査されていなかった、そして隠蔽されていたというのが、この本から読み取れます。

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私たちはヒロシマ・ナガサキについてどれほど知っているでしょうか。私は小学校の修学旅行の時に長崎の原爆記念館を見学したのですが、何か恐ろしくもオゾマシイ爆弾が投下され、多くの人々が亡くなったという印象でした。火災で焼け苦しんでいるシーンは覚えていても、残留放射線がその後の住民生活に暗く重い影を落としていることは小学生には理解しがたく、見えない被害はやはり印象が薄いということなのかもしれません。でも、現実には長く被曝で苦しんでいる人たちがいるのはご存じの通りです。

あれだけの被曝があったんだから、医学的にもきちんとした調査をしているだろうと考えるのは早計です。原爆傷害調査委員会(ABCC)という組織が原爆による被爆影響を調査したことになっているのですが、とんでもはっぷん。その委員会の日本側の中心にいたのが既出の重松逸造らで、その弟子筋が長瀧重信や山下俊一、高村昇とくれば、彼らの意図をきっちり理解しておかないと、フクシマはヒロシマ・ナガサキの二の舞です。

序文にあるように、高橋さんの目的は「原爆・核実験に関わる核戦略の実相と情報統制について、長らく隠されてきた米公文書のうち機密解除されたものを中心に検証」することでした。この本でピックアップされた話を読んでみると、いかに私たちが情報操作の対象であったかがよくわかります。要するに、大事なことは殆ど知らされていなかった、ということ。詳しい話は本をあたっていただくとして、今回の東電原発事故に関係しそうな点についていくつか紹介しておきましょう。

1945年当時、日本政府は「新型爆弾」攻撃を受けても大した被害はない、退避壕は有効、軍服程度の衣類で火傷の心配なし等々と報じていました。これは被害の大きさに対する評価を誤ったというよりも、甚大な被害を国民に知らせないことで士気の低下を防ごうと目論んだようです。ところがその一方で国は国際社会に対して、米国が非人道的な新型爆弾で大規模無差別攻撃をしたと批判を行っているのですから、二枚舌。

米国側は、ファーレル准将が「広島・長崎では、死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬現在において、原爆放射能のために苦しんでいる者は皆無だ」という記者会見を海外特派員向けに行っていますが、これはまだ現地調査をする前のこと。

当時、真実を報じようとした新聞を発禁にしたり、国内向けには日米双方で情報隠蔽に勤しんでいました。そして、被曝の危険性を認識できる機会がなかった被曝者たちは逃げようとか疎開しようとか考えることも少なく、残留放射線による被害が定着することになります(福島のことを連想させますね)。

米国ではマンハッタン計画の前後から放射線による被曝影響はかなり研究されていました。おそらく米国はヒロシマ・ナガサキを人体被害を調べる格好の舞台と考えたのでしょう。現地へ乗り込んだ調査団が「放射能の影響は全くない」としながら、すぐに本格的な調査に乗り出したのは、いかにも政治的な判断でした。

原爆投下直後のこの調査で集められた医学資料は、1946年1月に船で呉から米国へ移送されたとのこと。その資料はどう活用されたのか。高橋さんが調べたところ、米国が独占し他の誰にも見せるなという文書が残っているそうです。つまり隠されてしまいました。

そしてその後に登場したのが原爆傷害調査委員会(ABCC)。日本の学者もいっしょに調査しようというわけですが、米国の核戦略に従う日本側の学者のみを参加させ、被曝資料そのものは米国の管理下に置いたのです。核戦略を遂行するのに不都合なものが、これらの研究から出てこないのも当然。にもかかわらず、このABCC資料に基づいて現在の学者は被曝影響や遺伝障害について云々しています。しかし、被曝データの集め方そのものに問題があり、おおもとの信憑性すら明確でないので話になりません。

要するに、ヒロシマ・ナガサキでは、原爆直後に収集された被曝者データの医学的資料が隠蔽され、残留放射能による人体被害はないことになってしまいました。放射性降下物の危険性についても知らんぷり。低レベル放射線による被曝影響は「見られなかった」のではなく、政治的にも科学的にも見つける努力をしなかった(していても隠した)というわけです。

ちなみに残留放射能や放射性降下物が米国で話題になったのはビキニ環礁での水爆実験の時で、日本では第五福竜丸が巻き込まれた事件の時。この時、はじめて残留放射線で被曝影響が出てくることが明らかになったとされています。それよりも9年前に起きたヒロシマ・ナガサキは世界の核戦略の中で封印されてしまっているという高橋さんの見解に繋がるわけです。その通りですね。

ところで、高橋さんの本には原爆直後から広島で調査をした京大医学部病理学の天野重安氏のことが触れられています。

1951年京大の春の文化祭で、天野助教授(当時)の講義を受けた医学部の学生が原爆展を開催したのだそうです。天野先生は被爆直後の広島で災害調査を行っており、その時の資料に基づいて被爆影響の講義を行っていたのですが、その資料は米国政府・米軍の接収から守った貴重なものだったとのこと。当局が秘密にしてきた原爆の被曝実態を暴くような形になったことで原爆展の衝撃は大きく、その影響力の大きさに気づいた京大自治会・同学会が「総合原爆展」を進める原動力になったとされています。関係する学生らはその後の厄介な出来事で処分されていくことになるのですが、この辺の下りを全く知りませんでした。ただ、米軍占領下の日本で原爆の被爆実態を世間に明らかにしようとした学者や学生がいた、米国や国の言いなりになっている者ばかりじゃなかった、という事実に少し勇気づけられます。

さて、この本と中川保雄さんの「放射線被曝の歴史」を合わせると、もう少し視界が開けます。次回はそのことについて。