元米空軍中尉の手記〜日航123便墜落事件の闇(6)〜
2024/08/12
元米空軍中尉が日航123便墜落事件について自らの経験をまとめた手記を発表していることを、小田周二氏の著書で知りました。「上空を旋回中に横田管制が日航123便に米軍横田基地への着陸を許可するのを聞いた」など、大変重要な内容を含んでいる手記です。
******
1985年8月12日の墜落事件当時、アントヌッチ氏は米空軍の中尉で、乗務していたC130H輸送機は日航機の墜落現場を発見して報告しました。同氏は10年後の1995年8月20日に『サクラメント・ビー』紙に日航123便墜落事件での経験をまとめた手記を発表しました。更にその内容は米軍の準機関紙『星条旗(Stars and Stripes) 』紙に転載発表されました。その手記の内容を米田憲司氏の著書(*1)と小田周二氏の著書(*2)を元にまとめてみます。
米軍の横田基地所属のC130H輸送機で飛行中だったアントヌッチ中尉(航空機関士)は、日航123便の機長が管制官に非常事態を宣言(スコーク7700=国際救難信号)したことに18時30分頃に気付きました。そして、18時40分頃、日航機長が非常に動揺した声で管制と日本語でやりとりするのを聞きました(航空の標準語である英語ではなく日本語でやりとりするのは異常事態でした)。アントヌッチ中尉は旋回待機中に横田管制が123便に横田基地への着陸を許可するのを聞きました。123便の緊急事態は相当に深刻で・・・・・当該乗員は米軍基地への着陸を希望しました。・・・・・横田管制は123便と交信しようとしていたが駄目でした。・・・・・
レーダーから消えた123便の捜索を19時過ぎに横田管制から依頼されたC130H輸送機は、19時15分に墜落現場の煙を、19時20分には墜落機の残骸を発見して横田基地へ連絡し、墜落地点の情報は横田基地から日本側へ伝えられました。C130H輸送機は墜落地点の上空で旋回し、米陸軍UH1ヘリを墜落現場へ誘導しました。UH1ヘリは21時05分頃に兵士のホイスト降下を開始しましたが、日本側が来るので輸送機もヘリも基地へ帰還するようにと横田基地から指示され、日本側の飛行機が現場上空に現れたのを21時20分頃に確認してから引き上げました。
司令部で経過を報告すると、副司令官から「マスコミには一切他言無用」と箝口令を受けました。アントヌッチ氏は翌日以降の報道で、500人以上が死亡したこと、日本側が墜落現場を発見したのは翌日朝と発表したことなどを知り、日本側の救出活動の大幅な遅れに大きな疑念を持ったとのことです。
*****
アントヌッチ氏の手記が提起する問題は、大きく分けて2つです。1つ目は「横田管制は日航123便に対して米軍横田基地への着陸を許可していた」という事実です。一般論として、航空機が横田管制空域に入る時や米軍横田基地に近づく時には、横田管制と交信して許可や指示を受ける必要があります。日航123便は大月市上空で高度を下げて横田管制空域に入り米軍横田基地へ近づいているので、横田管制と交信していた筈です。でも、日航123便の音声記録(操縦室用音声記録:CVR)の「テープ起こし」<航空事故調査報告書(*3)p309〜p343> には、横田管制と日航機長との交信内容が記載されていません。これはあまりにも不自然なので、音声記録の「テープ起こし」から交信内容が削除されたと考えざるをえません。
2つ目の問題は「日本側の救助活動の大幅な遅れ」です。横田管制から日航機捜索を依頼された米軍の輸送機は、19時20分には墜落機の残骸を確認して連絡し、米軍のヘリは21時05分には兵士のホイスト降下を開始しました。日本側が来るからということで帰還命令を受けましたが、日本側の飛行機が上空に来たのを21時20分頃に確認してから引き上げています。米軍は早期に墜落場所を確定させて救助活動を開始し、日本側からの要請で引き上げるまで最大限の救助活動をしたと考えられます。航空事故調査報告書(*4)p25にも、19時15分頃に米軍から日本側へ火災場所の連絡があった、と記載されています。
一方、日本側の救助活動はどのように行われたのでしょう。航空事故調査報告書(*4)p26には、対領空侵犯措置用の航空機(ファントム)が19時21分に事故現場の炎を確認した、防衛庁のヘリコプターが20時42分に現場上空に到着した、日航機の残骸を発見し墜落場所を確認したのは翌日の午前4時39分だった、と記載してあります。ヘリコプターが20時42分に現場上空に到着したのに、1晩中「墜落現場は不明」とし、翌朝にやっと「墜落現場を発見」したと発表しているのは、日本政府・自衛隊の重大な虚偽発表です。524人が乗った飛行機が墜落したのに、迅速な救助活動を行わず、墜落直後にはまだ生きておられた方々がかなりおられたのに助けようとしなかったのは、重大な不作為であり裏切り行為です。
1晩中「墜落現場は不明」として、地元の人たちが救助活動に入山するのを自衛隊が阻止していたのは、意図的な時間稼ぎだったと考えざるを得ません。この「救助活動の意図的な大幅遅延」を前述の(1)〜(5)と共に総合的に考えると、自衛隊は1晩かけて証拠隠滅をしていた、という構図が浮かび上がってきます。垂直尾翼に激突した海上自衛艦のミサイルまたは模擬標的機の破片や痕跡、日航機に巻き付いた長いワイヤーとその先のオレンジ色の吹き流し、第4エンジンと水平尾翼を破壊脱落させたミサイルの破片や痕跡など、自衛隊が隠滅したい証拠はいろいろあったのではないでしょうか。それらの証拠隠滅を優先して、人命救助をしなかったのなら、犯罪行為そのものと言えます。(IZ)
*****
出典
(*1)「御巣鷹の謎を追う〜日航123便事故20年」(米田憲司著、宝島社、2005年)p103〜p121
(*2)「524人の命乞い 日航123便乗客乗員怪死の謎」(小田周二著、文芸社)p148〜p156
(*3) 国土交通省:航空事故調査報告書(昭和62年(1987年)6月19日) p309〜p343
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-11.pdf
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/62-2-JA8119.pdf
(*4) 国土交通省:航空事故調査報告書(昭和62年(1987年)6月19日) p25〜p26
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-01.pdf
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/rep-acci/62-2-JA8119.pdf