ファントムの謎〜日航123便墜落事件の闇(4)〜
2024/08/11
日航123便の墜落事件に関連して、非公表のファントム2機が日航123便を追尾していたことを青山透子氏の著書で知りました。この話は航空事故調査報告書には記載されていませんが、なぜでしょうか?
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青山透子氏は日本航空の元客室乗務員で、先輩や同僚が亡くなった日航123便墜落事件についていろいろ調査し、それをまとめて本を書いておられる方です。ペンネームとして「青山透子」を使用されているのは、身の安全を確保するためと考えられます。
青山透子氏の著書「日航123便 墜落の新事実」 には、藤枝市の女性の目撃証言が記載されています(*1)。要約すると・・・
(1985年)8月12日(墜落当日)の18時30分頃、藤枝市の会社を退勤した女性はジャンボ機が駿河湾の方向から富士山のある北の方角へ向かって、ゆっくりと右旋回しながら飛行しているのを会社の敷地内で目撃したとのことです。いつもの航路ではない場所で低空飛行のジャンボ機を見るとは思っていなかったけれど、ジャンボ機ははっきりと窓も見える程、高度が低かったとのことです。ジャンボ機は白い塗装に赤と紺色の線が入っており(日航のシンボルカラー)、機体の左腹部に円筒形〜楕円形の赤色の4〜5mのものが貼り付いていたとのことです。
その5分後の18時35分頃、女性は大洲中学校付近の道を運転中に、ファントム2機(F-4EJ)が飛んできて、ジャンボ機が飛び去った方向へ山の稜線ギリギリの低空飛行で飛び去ったのを目撃したそうです。なお、この女性は子どもの頃から航空自衛隊の静岡基地のイベントや航空祭でよくブルーインパルスなどを見ていて、ファントムの展示もあったので、すぐにファントムだと分かったそうです。
また、青山透子氏の同著には、自衛隊第12偵察隊(相馬原)の1等陸曹M.K.氏が、群馬県警察本部発行の『上毛警友』(昭和60年(1985年)10月号)に書いた手記も紹介しています(*2)。その手記によると、実家に不幸があり群馬県吾妻郡東村に帰省していたM.K.氏は、午後6時40分頃に実家の上空を航空自衛隊のファントム2機が低空飛行していったのを目撃したとのことです。自衛隊員がファントムを見た、ということで間違いはないと考えられます。18時35分頃に藤枝市で女性がファントム2機を目撃したという情報と一致する話と考えられます。
さらに、青山透子氏の同著には、御巣鷹山のある群馬県上野村の上野小学校の学童や上野中学校の生徒が墜落事件後に書いた文集も紹介しています(*3)。その中には「8月12日の夕方、(午後)6時45分ごろ南の空からジェット機2機ともう1機大きい飛行機が飛んできたから、あわてて外へ出てみた。そうしたら神社のある山の上を何回も回っている・・・それからまた見ていたら、ジェット機2機は埼玉県の方へ行ってしまいました。」という記載があり(*3)、大きい飛行機(日航123便)をジェット機2機が追っていた様子が伺えます。
航空事故調査報告書(*4) には「19時01分 対領空侵犯措置のため地上待機中の航空機2機を発進させ、19時21分 同機は事故現場と思われる場所に炎を確認した。」と記載されています。つまり、日航機墜落後の19時01分に自衛隊百里基地(茨木県)からファントム2機が発進したことは公式発表されています。でも、墜落前の18時35分時点でファントム2機が日航123便を追尾していたことは公式発表されていません。それは何故でしょうか?
日航123便では、相模湾の上空7300mを航行中の18時24分35秒に「ドーンという音」が記録され、その音の4秒後に機長が「なんか爆発したぞ」、その3秒後に機長が「スコーク77」、その5秒後に副操縦士が「スコーク77」を発しています。
「スコーク77」は国際救難信号なので、それを把握した管制官は最優先で対処することになっています。8月12日に海上自衛艦が相模湾での「公試」で模擬標的機やミサイルを飛ばしていたのは明らかになっていますが、その相模湾の上空を通過中の民間機が「スコーク77」を出したのですから、自衛隊はすぐにファントム等を偵察に出したのではないでしょうか?
なお、ファントム(F-4EJ)の最高速度は2690km/時なので、自衛隊百里基地から藤枝市まで最速なら8分程度で到着すると計算されます。偵察機を出したことを隠さなければならない理由は何でしょうか? 逆に言えば、この事実の重みが示しているものは何でしょうか?(IZ)
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出典
(*1)「日航123便 墜落の新事実」(青山透子著、河出出版)電子書籍 p114〜122
(*2)「日航123便 墜落の新事実」(青山透子著、河出出版)電子書籍 p122〜123
(*3)「日航123便 墜落の新事実」(青山透子著、河出出版)電子書籍 p133
(*4) 国土交通省:航空事故調査報告書(昭和62年(1987年)6月19日) p26
https://www.mlit.go.jp/jtsb/aircraft/download/62-2-JA8119-01.pdf