写す 見る

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昨年秋頃から写真に嵌まっています。今まで何度かカメラや写真に嵌まることはありましたが、今回の症状はどちらかといえばレンズや描写方法への興味。311以降、東電福一原発などのマヤカシ映像を繰り返し見せつけられたせいで、写し手の意図みたいなものに逆に興味を覚えたから。でも、カメラの発明から現代にいたる歴史や経過などを調べたり、有名無名な写真を数多く見ることで、写すとか見るということへのラディカルな興味がどんどん増してきました。

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11月の終わり頃だったか、広河隆一さんが責任編集している雑誌DAYS Japanに「世界が震えた3.11報道写真」という特集がありました。街が津波にのみ込まれようとするシーンが1枚、地震の後の火災の写真が1枚載っていましたが、他はすべて震災後の写真ばかり。どれも、あの時の衝撃と恐ろしさを見事に伝えているのですが、震災をリアルタイムに伝えたのはやっぱりテレビだった、そのことを改めて実感。


スチール写真という手段が抱える現像や印刷というプロセスを考えてみれば仕方ないのかもしれません。記録を残したり、後で振り返ったりする時には役に立つ写真でも、即時性という観点でみれば、TVで流れるリアルタイムな映像とは本質的に違うなぁと思う次第。

個人的な話ですが、当日、地震があったことすら知らずにいたら、15時頃に連れ合いから「地震、大丈夫か」と電話あり。慌ててTVをつけると、今まさに津波が海岸線を駆け上がる瞬間でした。そのすさまじい映像に立ち尽くし、家々を飲み込む時には思わず「逃げろ!」と大声を出していました。本当に歯痒かった。そんなことしたって現地には全く伝わらないのにね。

さっきのDAYS Japanに載っていた津波で街が飲み込まれようとしている一葉の写真を見ていて、ふとあることが頭に浮かびました。TVで津波のシーンを見ていた人は多かったはずですが、その時何をしていたのかという疑問です。

映画を見るように煎餅をボリボリ食べながら? それとも家事の合間に横目で眺めながらでしょうか。でも、私のようにそのまま立ち尽くしてしまい、我を忘れて叫んだ人も多かったはず。それほど衝撃的だったということでしょう。でも、それらはすべて観客の視点。津波にのみ込まれていった人の視点ではありません。そのことに考えが至った時、映像とか写真のコワサを感じてしまいました。

一方で、TVは爆発した東電福一原発の映像を何日も流さず、綺麗な広告のような資料映像だけを数日間流し続けたことも記憶しておかねばなりません。TVであれ映画であれ写真であれ、映像の質とはリアルタイム性とか記録性とかそんなものだけではないイカガワシさを窺わせます。隠したいものは、隠せるだけ隠す、ということです。

昨年秋くらいから写真に嵌まってしまったのは、そんなことをずっと考え続けていたところ、妙に写真というものに改めて興味を覚えてきたんです。写すということの根源的な意味合い、表現としての写真、絵画との違い等々。他人の写真を見ていると、この人は見ている景色が違うのか!と驚くことが時々ありますが、そういった視点視界対象の違いについても考え出すと興味が尽きません。

私のは全くのアマチュア写真ですが、それなりにカメラに投資し、いろいろ写真を撮ってきました。平均的な人よりも写真は好きな方でしょう。カメラはニコンのデジタル一眼やリコーのGRD3を使ってきましたが、表現手段としての写真に思いを馳せ、10月にリコーのGXRを新たにゲット。そこにつけられるライカのMマウントを注文したらタイの洪水事件で出荷が遅れてしまい、手元に届いたのは大晦日の2日前。年明けからフォクトレンダーやライカのレンズを載せて写真を撮り始めています。蛇足ですが、ライカレンズの表現力にはちょっとびっくり。使ってみないとわからんものですねぇ(苦笑)。

ということで、今後拙い写真がいっぱい登場しますが御勘弁下さい。写すという行為の意図についても付記していくことにします。まず1枚目は名付けて「不知道」。

前に向かう道はぼんやりで暗いし、山の向こうに何が待っているのか全くわからない。足元を見ながら進んでいるつもりでも、見ているのはガードレールの留めピンかもしれません。あんら〜、この世界と全く同じじゃないか。そんなことを思いながらシャッターを切った1枚です。

(お知らせ)Imageの取り扱いをいじりました。過去の投稿にあるImagesも拡大画像が用意されている場合には画面全体を暗くして中央部にアップロードサイズの画像を表示するようにしました。今後の写真対応です。