ヒバクを強制される側の視点(その3)

.opinion 3.11

広島長崎の被曝被害の見直しによって、原子力関連業界とそれに連なる研究者らは「低線量放射線は被曝影響なし」という従来の説明の修正を余儀なくされました。そこで登場したのが、リスクベネフィット論とかリスクマネージメントと称するもので、一定の危険確率以下であれば問題なしという線引きのリクツです。

・・・・・

どういう考え方なのかというと、どうしても有害なものが避けられないのなら、どの程度社会が受け入れるべきか、それを設定し規制していこうというものです。WHO等の国際機関がこの議論を持ち出す時には、だいたい10のマイナス5乗リスク、つまり、一生涯で10万人に1人くらいが余計にがんで死亡することを比較の土台にしています。

そして、対象となる危険性がそれより大きいのか小さいのかを調べ、もし小さいのなら甘んじて受け入れようとする考え方です。でも、原発からの放射線をなぜ受け入れなければならないのか。脱原発の立場から、ヒバクを強制される側からすれば釈然としませんし、納得もできません。

念のために云えば、リスクベネフィット論は一応しきい値なしの直線モデル(LNT)を前提とした議論なので、前近代的な「しきい値あり」議論よりも進んでいます。でも、このリクツは理論というにはあまりにも政治的。だって危険か安全かの線引きを人為的に決めるので、どうしても作為が入ってしまう。そのことをいつも肝に命じていないと、すぐにヒバクを強制する側あるいは有害物質を強制する側の立場に組み込まれてしまいます(このトリックに嵌った研究者は数知れず)。

今回の原発事故で100mSvの被曝を受けたら一生涯のがん死亡増加率が0.5%程度だとTVに出てくる学者が説明していましたが、それは上記のようなリスク論によるものです。

100人中0.5人がんで死亡する人が増えることを聞いて、たいした危険性じゃないなと感じたとしたら、ヒバクを強制する側の思うツボ。

通常、100mSvという被曝は放射線業務従事者が5年間にさらされてよい、あるいは1回の緊急作業でさらされてよいという基準です(電離放射線障害防止規則。これを今回250mSvに変更)。それを避難や退避のためではなく、普通の生活のための基準に差し替えてしまう恐ろしさ! これもまたヒバクを強制する側の論理。まるで、ソフトな戒厳令のようなものと思うのは私だけでしょうか。

ヒバクを強制される側の視点(その1)
ヒバクを強制される側の視点(その2)
ヒバクを強制される側の視点(その3)
ヒバクを強制される側の視点(その4)