国策民営の罠

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国策民営の罠―原子力政策に秘められた戦い経済学者の中でこの人なら大丈夫だと私が思う1人が竹森さん(私見です、念のため)。今回は3.11原発事故に関わる賠償について歴史から説き起こし、現在の迷走の理由を探りつつ、あるべき姿を解き明かそうという力作です。



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この本は竹森さんご本人が感じた2つの疑問から話がスタート。1つ目は「ドイツにおけるライセンス期限の切れた老朽化原発の再延長」、2つ目は「東電の巨額な賠償をいったい誰が支払うのか」ということでした。

前者については、原発のトータルコストを探り、原発は「他の発電形態に太刀打ちできない非経済な発電形態」で、「ビジネスモデルとしては破綻している」というのが彼の答。ただ、米国の報告書だけを参照している点や、核廃棄物の処理処分&管理コストについてきちんと言及していないので、竹森さんの想定以上にコストがかかるんだよと私は指摘しておきましょう。

それよりも2番目の疑問に関する議論の方が面白い。曰く、原子力災害賠償法では電力会社の賠償責任に上限を与えているに、なぜ国が補償の肩代わりをするような雰囲気になるのかということを、本法律の生い立ちや成立過程と経過から解き明かしています。私は東電の資産を精算した上で残りは国が払えばいい(つまり国民が払う)という意見ですが、まぁそれは横に置いておいて…。

この賠償法の成立をめぐって、かの有名な我妻栄さん(東大教授 民法)が深く関わっていたこと(原案を審議した委員会の委員長)、そして我妻案を骨抜きにしようとした官僚の思惑、電力会社の抵抗等々、まるでサスペンスドラマ仕立ての展開。まるで映画でも見ているかのような展開に思わず引き込まれてしまいました。

我妻氏は「原子力関連事業が国家的なものであるなら、万一事故があった時の損害はたまたま周囲にあった不幸な人たちだけに負担させず、国民全体で負担させなければならない」(概意)と考えていたらしく、事業の民営性に大きな疑問を感じていたらしい。そのことが賠償を民間会社だけに留めず、国の負担をも視野に入れようと尽力させるのですが、財布を握る大蔵省はそうしたくなかった。賠償法の文面が曖昧なのは、そういうせめぎ合いの結果だという竹森さんの見解は、現在の迷走をそのまま説明しています。

さて、ここからは私の言い分です。

この本で賠償法の生い立ちや成立の動きを振り返ってみると、最初の最初から事故の規模について想定が甘く、被害者の人権に対する配慮が足りなかったことがよくわかります。当初の賠償上限はたった50億円ですし、現在でも1200億円。これは保険会社がそこまでしか請け負えないという上限のようですが、これでは足りません。フクシマは、そのことも証明してしまいました。

札束で都会から離れた場所の人たちの頬を叩いて原発を築造。本来危険なものを安全だと言いくるめ、深刻な事故が起きて被害が拡大したら、自分の責任ではないと抗弁する電力会社。核廃棄物の問題なんか初めから無視。そんな会社や政府とどういう信頼関係を結べるというのか。他者の資産や人権を蹂躙しておいて電力会社にはお咎めなしというのを法が許すなら、暗黒社会と同じじゃないですか!

原発事故は一度起きてしまうと取り返しがつきません。土地や資産を奪われ、精神的拠り所である故郷を追われて家族までばらばらになってしまった被害をお金で解決できるのか。仮に潤沢な賠償金を支払ったら話はオシマイになるのでしょうか。否! 

いやいや交通事故だって飛行機事故だって同じだという意見はあるでしょう。でも、国策事業と個人的事件をいっしょにしてはマズイ。(竹森さんの紹介で)我妻さんの議論を読んで考えて、本のタイトルがそこで始めて理解できました。

東京電力はいったん破綻整理して可能な限り賠償責任を負うべきだ、そう私は考えます。そのことが今回のような事故を二度と起こさないという国家的な強い意思表示の表明であり、今後のエネルギー政策を考える基礎を創り出すからです。要するに、深刻な事故が起きれば天文学的な賠償金を要するんですから「やっぱり原発やめようよ」が一番ですわ、ホンマ。

原発事故賠償を一から考えるなら本書は必読です。お薦め。

さて、次は脱原発を決めたドイツのメルケル首相の動きを追ってみましょう。メルケルさんは東ドイツ出身の理論物理学者で原発推進論者だった、その彼女が新生ドイツの首相になり、そしてフクシマを経験して脱原発に動いた・・・という、これまたドラマ仕立てのような流れです。(続く?)