牡丹の記憶

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牡丹というのはどういう様式で記憶に残るのか、色なのかカタチなのか、何か別のモノの印象なのか、それとも色カタチ等の総体こそが問題なのか。庭の牡丹を見ていてあれこれ考えました。

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庭の牡丹が大輪の花を咲かせたことは既にお伝えした通り。わが世の春を誇る、球のような花びらが圧倒的に素晴らしい。モノサシを当てると直系15cmは超えています。凄いなぁ。

その姿を記憶に留めるために写真に収めていると、ふと浮かんだのは牡丹の記憶っていったいどういう様式で残るのだろうかということ。花の色なのか、真ん丸とした大振りのカタチなのか、それとももっと違う形式なのでしょうか。

まず色。牡丹にはピンク色もあれば白色もあり、ピンクも薄いものから濃いものまでいろいろ。とすると、必ずしも色じゃなさそう。

カタチはどうか。まるでティッシュペーパーを束ねたような大ぶりなカタチは確かに面白い。でも、このサイズならダリアとか菊だってあります。念のためにモノクロで撮影してみると、どうもこの姿カタチが記憶の決め手になっているとは言い難い。とすると、あるがままの全体こそが記憶の必要条件なのか。モノを個々の要素に分解して考えること自体が無理なことですから、それが優等生的な解答なのかもしれません。

でも、写真を撮っていて改めて実感したのは香り。写真を撮ろうと近づくと、長谷寺のような群生した場所で感じた、あの香りの記憶が甦るかのようです。あぁそうか、香りも大事な記憶の要素だなぁと思った瞬間でした。

モノの記憶って視覚だけではないことを再認識。カメラでは決して撮せないものを感じさせるような写真を撮れれば凄いことなんですがね〜。