光のダンス その1

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さて、久しぶりの絵画と写真の話。

最初に印象派の絵画を見たのはいつのことだったのか。こどもの頃読んだ文学全集の表紙、親に連れられて行った展覧会、それとも美術関係の本を覗いた時だったのか…、はっきりとは覚えがありません。

最初の印象といえば、点々で表現された変わった絵だなぁとか、明るいビビッドな、あるいは激しい色使いだなぁとか、とにかく写実風ではなく心象を色で表現したというような感じ。妙に心惹かれ記憶に残るのは、何か琴線に触れる処があるからなのでしょう。でも、それがいったい何なのか、よくわかりません。それがわかり始めたのはずっと後のこと。

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私は絵が好きです。幼い頃は絵描きになりたいと思っていたくらい。その夢 ?! はある時に断念しましたが、それでも学生時代から現在に至るまで美術館や美術展にはよく足を運んできました。

仕事で西ヨーロッパをぶらぶらしていた1988年は、時間ができると片っ端から美術館巡り。ベルギー、オランダ、スイス、オーストリア、スペイン、そしてフランスの主だった所はだいたい踏破(ドイツではなぜか記憶が乏しい)、有名どころ以外でも地方の美術館、個人美術館には面白い作品が多く愉しめます。

お気に入りは印象派。滲んだ光のようなモネの描写、スーラやシニャックが描いた点描画、セザンヌの不思議な色使いや、怒りのごときファン・ホッホの激しい色と形……、いろいろな所で繰り返し見ていると、それぞれの画家の狙いというか、意図や思惑みたいなものが少しずつわかるような気がしてきます。

なぜ印象派の絵が人気なのか。コマーシャリズムによる刷り込みなのでしょうか。でも、一度見てしまうと記憶に残るし何となく寛ぎます。じゃ、あの心象的な表現はいったいどういうプロセスで描き出されたものなのか、なぜそれが私たちの心に染み渡るのか。印象派の画家は見えている景色そのものが私たちと違うのか。そんな疑問をずっと持っていました。

でも、20数年前にCG(コンピューターグラフィックス)をかじり、光の描写を数学的に計算する知識と知恵がつくと、印象派の技法というのが故意に設えたものではなく、ごくごく自然な観察に基づくものであることがだんだんわかってきました。

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ちょっと実験をしてみましょう。まず1枚目は拙宅のヤマボウシを撮ったものです。ピントは中央付近の花に合わせています。

では2枚目をご覧下さい。

同じ場所で同じ露出の写真ですが、ピントを前ピンにしました。そのまま見ればピンぼけです。いったん合焦しておいて焦点をずらしていくと、カタチがだんだん曖昧になり、色のカタマリ状態になっていきます。近眼などの人ならお馴染みの景色ですね。このぼやけた雰囲気ってどこかで見たことがありませんか。

一方、モネの絵にも合焦した部分がまずありません。程度の差こそあれ、全体としてボヤッとしているものばかり。写真だったらピンぼけと誹られるのに、絵画の場合それを表現の1つとして私たちが了解するため、ほとんど気になりません。

問題は、このボケが技法なのか、それとも違うものなのか。そこにモネの絵だけでなく印象派の点描画とかそんなものを解くカギがあるのではないか。

そんなことをずっと考えていると、私思うに、モネは見たままを描いただけだったのではないか。もちろん、見たままといっても、彼にとって描きたい光のシーンを描いたのでしょうが、取り立てて奇をてらったのではないということ。そう考えると他の印象派の絵もだんだんわかってくるような気がしてきたのです。

何を暈けたことヌカしとるんやねんと思った人、その2で話をもう少し鮮明にします(続く)。