大地震頻発時代のはじまりと剥きだしの核燃料

.Books&DVD… 3.11

東北地方太平洋沖地震は”予知”できなかったのか? 地震予知戦略や地震発生確率の考え方から明らかになる超巨大地震の可能性 (サイエンス・アイ新書)3.11以降、地震学者が活発に発言を始めています。それまでの発言の少なさは単にサボタージュだったのか、云いたくてもなかなか云いにくい雰囲気だったのか、あるいは口止めされていたのか。メディアが取り上げやすくなったのはたしかでしょうが、まぁそんなことはどうでもいい。真摯に地震学者の言い分に耳を傾けるなら、東電福一原発の「剥きだしの核燃料」がいかに危険であることか。(左は佃為成「東北地方太平洋沖地震は”予知”できなかったのか?」)

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今まで地震や津波の危険性を訴えても、まるで大げさであるとか「オオカミ少年」扱い。それが3.11以降、メディアが取り上げやすくなったのか、テレビや新聞あるいは雑誌などの媒体で「これからの地震の危険性」について警鐘を鳴らす学者や研究者が増えてきました。関東地域の地震の危険性や大阪湾からの津波についての話などがそうです。

原発との絡みでも、原発再稼働の是非を活断層の存在で見直そうという機運が出ています。危険性を訴えてきた少数派の学者にとってはやっと陽の目をみたというか、一方でいったいなぜ今頃になってなのか訝しく思う向きもあるはず。でも、この動きはウエルカムです。

15年前私は、「地震の現象と地震による災害は区別せよ」(概意)と云った寺田寅彦を引きながら、この国では予知とか予報のような、できるかどうかもわからない事業には巨額のお金を注ぎ込む一方、起きたらどうするのかといった災害対策の実務はあまり考えていない不思議さがあることを指摘しました(拙著『あぶない水道水』p.202)。阪神大震災の後、米国の某雑誌で「さすが占いの国だ」と皮肉られていたくらいです。

あの阪神大震災と昨年の東北大震災を経験して、国は、そして私たちの震災への心構えはどれくらい変わったでしょうか。少しは進化したのかなぁと思う反面、やっぱり忘れやすい国民性なのかなぁと思うことも多々。とくに、東電福島第一原発を見るにつけ、あれがとっても危険な状況であることをなぜ多くの人が理解できないのか、私は心配です。

最初に挙げた本の内容はいろいろですが、ここでは本の後書きを紹介しておきましょう。

「(前略)平安時代のころ日本各地で大きな地震が続きました。いまの時代もまた大地震の活動が盛んな時代に入ってしまったようです。くれぐれも、今後の防災対策を考えてほしいと思います。(後略)」

この警告を真摯に受け取るなら、東電福島第一原発の「剥きだしの核燃料」の存在をどう考えたらいいのか。原子炉内の燃料棒なら密閉容器や格納容器というバリアがありますが、今の東電福一原発の使用済み分は全くの剥きだし。そこに不幸にもまた大地震が起きたら、壊れかけたプールが瓦解し、放置燃料棒が発熱し、一部は爆発して周辺に飛び散ることでしょう。

どれくらいの核廃棄物がどんな風に飛び散り、その影響範囲はいったいどれくらいなのか。国や東電はきちんと評価しているのでしょうか?非常時の対応はどういう風にするのか、既に準備しているでしょうか。それともまた何も手をつけていなかったり、あるいは「不安を煽ってはいけない」等という理由で隠しているだけなのでしょうか。

いずれにしても、そんな状況下で避難地域の条件を緩めたり解除するというのは私からすれば正気の沙汰とは思えません。私だけではありません。多くの専門家、そして欧米の専門家だってそう考えている人は多いのに、国の判断はあまりに能天気過ぎ。

御用学者連中にすら奇妙だと云われている(政権が勝手に云うだけの)「冷温停止」等々、支離滅裂な判断で住民を危機に追い込んでいるのはいったい誰なのか?

福島だけではありません。琵琶湖の周りだって福井の原発を考えればかなりヤバイ。それは3.11以前も以後もいっしょなはずですが、先の本では近畿の地盤変化にも言及し、兵庫の地下水温の変化や京都の地下水が最近濁ってきていること、そして琵琶湖の底に最近地下水やガスの湧き出しが増えてきていることを紹介し、大地震の準備過程なのか、と指摘しています。こちらも覚悟を決めておいた方がいいかもしれません。

地震は起きます。残念なことにそれが何時のことなのか、どれくらいの規模で起きるのか、今の科学技術のレベルでは(そしておそらく将来でも)私たちにはわかりません。だからこそ、それが起きても対策十分だ・大丈夫だ等と虚勢を張るのではなく、少なくとも致命的・破局的な被害をもたらすようなことは止めときましょうよ。ホンマやで。