森を見たら木も見よう

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昨日、神は細部に宿ると書いて思い出したのは「木を見て森を見ず」。小さなことに執着して全体を把握できないことに対する皮肉や批判のこと。でも、遠くから近寄れば、初めは森しか見えません。森に入り込んでも、木々の1本1本、枝の端から端、そして葉っぱの一枚一枚にいたるまでじっくり見る人はどれほどいるのか。あれこれ考えると、話はややこしい。

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諺の内容に難癖つけても仕方ありませんが、問題は全体像を掴めないということだけなのか。だって、「木を見ても見なくても森を見ない」な人もいるでしょうし、「木を見ず森を語る」輩もたくさんいそうだから。

写真で示してみましょう。まずは木々の写真。枝々や葉っぱの1枚1枚まで見ているとキリがありませんが、木が木という存在である限り枝や葉っぱは欠かせません。そして木々が集まって林や森を構成しているのですが、それぞれの木々を見ても森の全体像はなかなか見えてきません。当たり前。

じゃ森という全体像を見るためにはどうしたらいいか。観察者が森を出るなり離れて、視点を遠くに置けばいい。そうすると今度は木々の詳細がだんだん消え去ってしまいます。全体像を掴むためには細かい情報は邪魔になるからでしょう。

下の写真は林の全体像を撮したものです。右の木の一部を抜き出したのが上の写真ですが、全体写真から上の木の姿を読み取るにはピクセル大に拡大しないとなかなかわかりません(というか、上は下をピクセル大にしてトリミングしたもので、同じ写真の一部)。

つまり、下のを最初に見たら、その構成部分である木々の1つ1つに目がいく人はまずいないのではないでしょうか。つまり全体像を掴んだつもりになった時、鑑賞者は森の要素である木を見ることなく、つまり、「木を見ずして森を見たような気になっている」のではないか。これは「木を見て森を見ず」よりもずっと深刻な落とし穴に落ち込んでいるような気がします。だって、神は細部に宿るんですから(笑)。

この話、組織や国家を守るために個々の人権をないがしろにするという話と基を一にしますが、まぁそれはさておき(先日最終回を迎えた「CRISIS」がこのテーマ)、私思うに森を木々の集合体とするなら、木々の存在を忘れるかのような見かたは、やはり根元的におかしいと云わざるを得ません。

とりあえず、写真は部分部分の細かい処まで見ましょう。そうすることで部分と全体とのバランスや連関も浮かび上がってくるというもの。要するに、森を見る時には木も見よ、というわけ。そんなことを考えさせてくれた写真に感謝。