ムハンマドで脱線

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一泉庵に書いたようにムハンマドとは従来のマホメットのこと。メディアはその時々の理由で勝手に人名を替えてしまいます。ちょい前はリーガンと呼んでいた米国人を大統領にならんかなという時に原音に近いレーガンに替えました。素直に追随していた者にとっては別人候補が出てきたのかと思いましたが、そうではありません。今回のムハンマドにも同じ感慨を持った人が多いはず。でも、私にはもっと違うことが気になりました。…

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メディアが人名をその時々で替えるのは対象とする人に対する人権問題だと思いますが、まぁそれは横に置くとしましょう。こういう人名替えが出るといつも気になるのは、メディアにおける毒性物質の取り扱いにみられる同じような勝手さ無責任さ、です。

たとえば、トリハロメタン。
水道水の中に含まれる物質で、水中の有機物質と消毒用の塩素剤が反応して生成するものですが、70年代から80年代にかけて新聞やTVを賑わせてました。当初は今にもガンになるかのような報道でしたので、事実を知った消費者を不安に陥れ浄水器などの売れ行きに大きく貢献したのはご存じの通り。
ところが、その後数度の動物実験によって当初想定されたリスクよりも大幅に小さいことが判明したので、90年代から欧米ではほとんど問題にならなくなりました。拙著「あぶない水道水」(1996)でも書いた通りです。でも日本のメディアは私が指摘したようなことを知らせることはありませんでしたし、むしろ放置したまま水道事業の高度処理推進報道や関連業界のトリハロメタン対策を喧伝し続けました。

従来よりも危険性が小さくなったのだからいいではないか、という開き直りがメディア側から聞こえてきそうですが、不安に陥れたままの責任はいったいどうなるのか。そのことで誰が得をするのかしたのか。そういった観点で物事を考えると、この社会の有り様も少しばかり見えてくるというものです。

トリハロメタンは当初考えられていた危険性がそうでもなかったからまだ良かった。世の中には必ずしもそうではない物質の方が多そうなので、それらの報道にはメディアが作り出す流行のようなものを考慮しなければなりません。

住宅建材などから放散されるホルムアルデヒドは一時期メディアをかなり賑わせました。問題の顕在化で法制や基準ができ、幾分は規制されるようになったとはいえ、問題が消えたわけではありません。聞けば、問題にしていた団体の一部には最近塩ビ業界の支援を受け変質してしまったところもあるそうな。問題は陰湿化したというべきでしょうか。でも、メディアに登場しなくなるといかにも問題解決であるかのような印象を与えかねません。

ダイオキシンも然り。ちょい前は環境ホルモンというのもありました。これらの危険性も未だ払拭されたわけではありませんが、喉元過ぎれば何とやらでメディアの舞台における出番が減ると危険が過ぎ去ったと思っている人が多いのではないでしょうか。

これらがどれくらい危険なのか未だによくわからない、だから軽視してはならないという程度の問題を、「あまりにも危険なもの」として報道してしまったのがこの国のメディア。一時は熱狂的に伝えても、その後の疲れか別の事情なのか、関連報道はほとんど聞こえてこなくなりました。その結果、何が起きたのか。皆さんもいっしょに考えていただきたい。たとえば、ダイオキシン対策の高温ごみ焼却炉なら建設オッケイと云いだした某消費者団体には滑稽さを感じてしまいましたが、それが当然と思う住民の多さにも驚きます。メディアの報道の仕方が一種の洗脳懐柔を誘導していると思うのは私だけでしょうか。

話を人名に戻しましょう。
相手の人権を考慮するなら原音に近い発音名に切り替えていくことに私は大賛成です。ただ、そうであれば世界中どこの国の人に対しても同じことを行ってほしい。考えてほしいのですが、未だ中国人の名前は日本感じ読みだったり、妙な英語発音だったりするのはいったい何故か。地名にいたっては未だ米英語読みを優先させるのはどうしてなのか。そこらにも日本の文化のアヤシサというか、米国べったり・あるいは・すり寄りの姿勢が見えてしまいます。今回のムハンマドには人名軽視を差別表記とイスラム文化圏からとられかねない懸念があったからなのでは?。

何事もチカラ関係。メディアは自らが都合悪くなるようなことはやらないが、大きな力による抑圧を感じると手のひらを返しかねない。そういったことをムハンマド報道に私は感じました。やっぱり脱線だな(苦笑)。