誤解の因果応報

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daimonnji14先週土曜日は数年ぶりに大文字の送り火を観ました。吉田山の東麓に住む友人宅にお邪魔し、如意ヶ岳をド正面から臨むと真ん中の松明の勢いや作業する人影まで見えて圧巻。素晴らしい一時でした。

その五山の送り火は盂蘭盆会に起源を持つ行事ですが、どこまでが仏教的なのか私にはよくわかりません。だって仏教の教えって時々の権力者によってねじ曲げられたり、商売で換骨奪胎されていたりすることが多いから。たとえば、お釈迦様の教えを調べると因果応報って私たちは誤解しまくりであることがよくわかります。

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私は仏教徒ではありませんが、因果応報と輪廻転生はありそうだなぁと思っている1人です。その因果応報ですが、一般には「努力すれば報われる」、あるいは「悪いことをしたら天罰が下る」等々と考えられているのではないでしょうか。

努力したら何かしら良い結果が起きてほしい、そう思うのは人情です。でも、なかなかそうは問屋が卸しません。努力したのに試験に落ちた、商売がうまくいかなかった等々と愚痴をこぼすのは良くあること。一方で悪いことをする輩がいるといずれ良からぬことが起こるぞと悪態つくこともあります。そんな考えを私たちは因果応報と云うのですが、本来は違います。

まず、原典のバラモン教では輪廻との関係で因果を考えるので、応報があるのは来世以降の話。いくら努力してもこの世で報われるかどうかは不明です。まぁ来世を持ち出せば誰もわかりません(これは宗教の極意)。

因果にこだわるな―仏教ならこう考えるまた、お釈迦様の言い分も違います。結果には必ず原因があるというのを因果関係といいますが、お釈迦様は原因だけでは結果は生じないとし、因(直接要因)と縁(間接要因)によって結果が起こるとしています。

タネを蒔いても花になるとは限りません。水を遣り日光をあて養分のある土壌がないと無理です。タネだけが結果に繋がる原因ではなく、間接的にいろいろな条件がないと結果は生まれないというのがお釈迦様の教えなのだとのひろさんの説明です(ひろさちやさんの『因果にこだわるな』春秋社)。

また、教えでは、因果応報とは善因善果、悪因悪果、善因楽果、悪因苦果の4つがあります。要するに、良いことが習慣化したり満足感が得られたり、悪い行為は新たな悪や呵責などを導くというものです。「努力すれば報われる」とか「天罰が下る」というのは意味合いが違います。


なぜ因果応報の考えが誤解されてしまったのか。おそらく、西洋思想や科学技術の一般化によって、私たちが原因と結果との関係を直線的に結びつけてしまうからでしょう。でも、現実世界はそんな単純ではありません。物質を素粒子まで細かくしていってもキリがありませんし、ここ10数年複雑系サイエンスが勃興しているのはその現れです。そういう意味では、複雑系な仏教の因縁果が注目されるのも宜なるかな。

ひろさんじゃないけど、あまり因果に縛られると縁をないがしろにしそうですし、拘わらない生き方の方が気楽に気易く自由で、良さそうです。

それにしても、因果応報とか輪廻転生とか、そんな考え方をいつ頃私は身につけたのか。記憶がはっきりしなかったのですが、ひろさちやさんの本などを読んでいて思い当たることがありました。どうやら手塚治虫さんの漫画だったようです(続く)。