同窓会の社会学

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同窓会の社会学―学校的身体文化・信頼・ネットワーク同窓会の社会学 黄順姫 世界思想社 2007

ある雑誌の書評欄で、ある高校の同窓会を題材にし、いろいろな社会学的考察を加えたとの本を見つけました。その高校とは福岡県立修猷館高校。私にとって、どうしても好きになれなかった出身高校。韓国生まれの著者なので、ひょっとしたら私の違和感や疎外感の背後にあった得体の知れないモノについて何か教えてくれるのではないかと期待しましたが、・・・全く期待はずれでした。残念。

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修猷館(しゅうゆうかん)。その名前をはじめて聞いた人には何かしらケッタイな名前に聞こえる、その高校は江戸時代に黒田藩校としてスタート。広田弘毅などの政治家を輩出したり、数々の知識人、実業家などを生み出した高校として知られています。とはいえ、九州以外の人にはあまり知られていないのが実情かもしれません。

新制高校になってからも、九大医学部を始め有名大学に多くの合格者を送り出す進学受験校として、九州地域では私立のラサール高校を除けばトップの座を続けています(現在は不知)。地元中学校ではトップクラスの成績がないと入学できません。でも、実際のところ、勉強ばかりではなく、文武両道、質実剛健、バンカラが売りで、それがまた在校生や同窓生らの自慢となっています。

バンカラ好きの私は下駄通学までやっていましたが、この高校がどうしても好きになれませんでした。理由は明確。右翼思想を意識的に、あるいは潜在下に叩き込む学校だったから、です。でも、そのことに気づく生徒が少ないのか、あるいは受験のためには無視すればよいと賢しい対応ができる人が多いのか、話題にされることもありません。いや、そうじゃない。政治的なこと思想的なことを話題にする者には明に暗に制裁が加えられていたというべきところです(自殺に追い込まれた者あり)。

今はどうだか知りませんが、私が高校生だった時期の話をさせてもらいます。まず、修猷館の校歌は館歌と称し、その中に「皇国のために世のために」という箇所があるのです。びっくりしました。信じられない人は、学校のHPをご覧下さい

私が入学したのは1972年。既に戦後30年近く経っています。日本国憲法にも天皇はシンボルである旨が明記されています。でも、この学校では今でもミクニ(皇国)と讃えて憚らない。この歌が作られたのは大正12年。そのアナクロな歌詞を、入学したての新入生に応援団は大声で唄わせ覚えさせます。あたかも、この国が今でも皇国であることを教えんとするかのように。

いったいこれは何なんだ!・・・ああぁ間違った場所に来てしまった・・・

私自身は別に左翼というわけではありません。でも、この国をミクニと讃えるほど右的な日本人ではありません。念のために云えば、♪ああ、インターナショナル・・・的な歌の、左翼的な強制に対しても違和感があります。こちらも、どうしようもない時はクチぱく対応。要するに、思想的な強要に対しては右であろうと左であろうとNO!、従えません。

また、この高校には修学旅行がありません。正確にいえば昔はあったようです。ある教師に尋ねると、以前は朝鮮だったが植民地じゃなくなったのでやめたとのこと。それを聞いた時、恥ずかしさと怒りで頭のてっぺんから火を噴きそうになりました。

おいおい、今はいつの時代なのだ!侵略戦争の反省は全くないのか?まるで侵略時代から時間が止まっているかのような感覚に襲われます。

先の館歌同様、この高校には敗戦の事実があるのでしょうか。先の修学旅行先の件はその教師の話であって学校の公式見解ではありません。でも、修学旅行がないのは事実。何故? また特攻隊の生き残りとかパラシュート部隊の兵士だったというのが自慢?の教師までいて、それに何の不思議も感じない学校と生徒。私には耐えられませんでした。

そうそう、映画上映のトラブルもありました。社研や映研の人たちだったか、土本典昭さんの「水俣病」を学校で上映しようと入り口付近に立て看を置いたら、生徒指導の某教師がそれを撤去させ上演もできないようにしてしまいました。結局定時制校舎に場所を替えて上映したらしいのですが、高校生の私にとっては、水俣病というのは何かヤバソウだと変な気持ちになったくらい。看板立ては学校のルールに反するとか、規律上許せないという理由は建前にしか思えませんでした。

本当のところ、強者の論理を学べ!余計なものは必要なし!それが権力的な思考様式だ!

ということだったのではないか。要するに、この高校の「教育」や「指導」とはかくのごとし。穿ちすぎ?そうは思いませんね。

幸い、当時の国語のT先生が「あの映画はいい映画だから時間がある人は見に行くのがいい」と云っていたのが救いでした。このデキゴトが、その後私が水俣病に関心を持ち、水俣へ出かけていくキッカケとなったのかもしれないと思うと、少なくとも私にとっては反面教師的な「良い指導」だったのかしれません(苦笑)。

いくらバンカラとか文武両道とか云ったところで、世の中の事実をねじ曲げ、弱者被害者まで含めた権利を守るという姿勢が希薄、あるいはないのなら、私はお断りです。権力にならんとする、あるいはその手先になろうとする人たちに対する教育こそがこの高校の目指すものだ、というのなら私は完全にお邪魔虫。そんな私でもなんとか卒業できたのは、幸い、似たような考えを持つ友人がいたおかげだと改めて感謝します。 >S君K君T君ほか

そういうこともあり、この高校の同窓会総会などというものには行きたいとも思いませんし、行ったこともありません。

黄さんの「同窓会の社会学」は、修猷館の同窓会が創立以来の卒業生全部を対象にした盛大で活発なものであることの背後にある意味は問わず、同窓生のネットワークやその社会的資本とかの素晴らしさ?!を評価し、それを同窓会という組織の本質だと考え、一般化しようとしています。個人的体験から考えると、アナクロな権力志向体質の現れの1つではないかと思えて仕方ありません。著者の議論はこの高校の特殊性を全く捨象したが故に、学問の体裁をとってはいても、結果としてこの高校の同窓会を美化してしまったのではないでしょうか。

本の中で著者は卒業生の聴き取り調査をいろいろ紹介しています。曰く、「女房は裏切れても同窓生は裏切れない」とか、「仕事の同僚は仲間じゃない(でも同窓生は違う)」とか、「修猷出身だと同じ文化だろうと信用する」とか、ここの同窓生ならさも云いそう。でも、私が、福岡を出よう、大学は別の地にしようとなぜ思ったのか。そのことを改めて実感できました。

敗戦の反省もなく、日本国を皇国といって憚らないアナクロな高校、それが修猷館。その善し悪しは人様々でしょうが、その高校時代を「罪なき時代」と言い切るには非常に抵抗を感じます。著者の母国である朝鮮半島を侵略し、従軍慰安婦問題まで引き起こした当時の国の思想的基盤を作り出したのは、まさにこういう高校教育の存在だったのではないか。そして、同窓会もまたその権力装置の1つとして機能し、そしてそれが戦後になっても何の反省もなく、そのまま続いている・・・のではないか。

昨今のキナクサイ状況を考えるなら尚更のこと。ミクニノタメニ等と讃える高校そのものの存在から議論をスタートさせないと、この高校の同窓会の持つ社会的な意味や意義を描き出すことはできないのだ、と私は云いたい(きっぱり)。

残念ながら、本書に対する私の期待は全く適わないものでした。だから、アマゾンリンクをつけておりません。ご興味のある方はご自身でお調べ下さい。