土木学会誌に寄稿 

Water

遅ればせながらのアップです(2004/01/30)。
なお、この原稿は土木学会誌 2001年7月号(vol.86-7)に掲載されたもので、土木学会及び土木学会誌編集委員会の転載許可を得ています。


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あぶない水道水

(サブタイトル)袋小路の水道パラダイム

有田 一彦(水問題研究者)

水源保護の欠落

 日本の水道普及率は96・1%(1997年)。全国津々浦々まで水道管が張りめぐらされ、蛇口をひねるといつでも好きなだけ飲み水が手に入る。この気軽さと利便性は計り知れないものがある。この日本の水道サービス、はたして未来永劫続くものなのだろうか。

 水道事業とは水源を確保し、その水を浄化し、需要者に供給するというものである。日本の水道技術はオランダやイギリスなどの水道を基礎にして発展し、米国流の塩素消毒を組み込んだものだ。技術は世界に誇れるまで発展したが、欧米水道の根底にある哲学や思想までは学ばなかった。それは何か。欧米水道の最も基本的で肝心なモノ、水源の保護・保全である。
 
 以前の日本では比較的良質の原水が得られたせいか、水源の水質は所与のものとし水量の確保だけを行えばよかった。あとは浄水処理を適正に運用し、消費者へ効率良く供給すればよい。これが日本の水道事業者が規範とするビジネスモデルであり、筆者が云うところの『浄水処理と管路供給』のパラダイムである*1)。そこには水源の保護や保全を真剣に考える必然性は存在しない。
 
 水源水質にそれほど問題がない時代には、このパラダイムの欠陥が露呈することはなかった。しかし、ここ2、30年で状況は一変する。環境破壊や水源の富栄養化、浄水場上流での下水処理水・し尿処理水の放流、水源地における産業廃棄物処分場の存在、水源地のリゾート化等、どれをとっても今日の水道水の水質悪化と無縁ではない。蛇口の水がカビ臭い、異様なニオイがする等という場合の原因はほとんどが水源問題だが、水源環境を保全する手だてが水道当局側にはないため、歯ぎしりしながら甘受するしかないというのが今日的状況だろう。
 
 欧米では水源地域の経済活動の禁止や開発規制、保護地域指定などの関連法制が充実しており、水源地や地下水の保全と保護を水道事業の根幹に据える。この水源保護を怠ったのが日本の水道である。そのツケはあまりにも大きい。水源問題が現在の水道パラダイムのネックであることを知っている関係者は多いはずだが、浄水処理の高度化などで対処しようとする限り根元的な問題解決を先送りするだけであろう。

破綻する水道パラダイム

 水道水の水質をよりよいものにしようという場合、現在の水道パラダイムのもとでは浄水処理の強化が有効な解になる。当たり前だと云うなかれ。水源保護が視野にないパラダイムでは浄水処理で対処するしか道がない、と皮肉ることもできるのである。

 現行の凝集沈澱・砂ろ過に塩素消毒という浄化方法は、水源水質の清浄さを前提とする。水源水質が悪化してくれば前提条件そのものが壊れてしまうが、日本の水道当局者はそうは考えない。新しい処理を追加すればなんとか対処できる、処理の操作条件をいじれば解決可能だなどと考えてしまうようだ。消費者にもそれが最善の対応だと広報する。本当にそうだろうか。

 数々の汚染物質に対応した浄水処理の開発、そして最適運転条件の探求、さらには水質試験項目の大幅な増加や高価な分析装置の購入の繰り返し・・・、それが現在の水道当局の歩んできた道である。必要だから必要という単純な論理が先行し、手段が目的とすり替わっても気づかない。延々と続くモグラ叩きゲームのような様相を呈してきても、処理以外での回答を探そうとしない、いや探せない体質になっている。『浄水処理』のパラダイムに束縛されてしまった結果ともいえよう。

 しかし、消費者は水道当局の運命共同体ではない。水道事業関係者と違い、既に現在の水道パラダイムの破綻に気づいている。いや、そのパラダイムを認容しない方向に動き始めているというべきだろうか。論より証拠、ミネラルウォーターや浄水器の売れ行きを見てみればよい。二○年前だったら蛇口から出る水道水に全幅の信頼を与えていた消費者が、今では瓶入りの飲み水を買ったり、自宅で浄水器を使う時代である。

 ミネラルウォーターの販売量は年間108万キロリットル(2000年)。一人当たり10リットルは必ずしも多くないが、20年前の10倍以上、その増加は衰え知らずで伸びる一方だ。一方、浄水器は年間約350万台が売れており、交換カートリッジでみると年に2000万台強も出ている(1999年)。浄水器がどれくらいの家庭に普及しているのかは不明だが、交換カートリッジを年に2回替えているとすると1000万台程度の浄水器があり、四世帯に1台の普及率となる。つまり、消費者の水道離れはとっくに始まっている。なのに、水道当局はこの事態を正しく理解していない。

 もう13年前のことだが、ある水道マンが浄水器を組み込んだ水道サービスを提言したことがある*2)。しかし、とうの水道局は『高度処理』に邁進するのみで、その提言を抹殺しパラダイムシフトへの芽をつみ取った。『浄水処理+管路供給』のパラダイムの末期的症状ここに極まれり、である。

 以下、『浄水処理+管路供給』の水道パラダイムがいかに袋小路に入り込んでいるかを3つの例で示してみよう。まず第一は病原性微生物による汚染問題、二番目に給水装置の鉛汚染、三番目は非常時用水について、である。

塩素で死なぬクリプトスポリジウム

 浄水処理は万能ではない。水道水経由の感染症を予防するはずの塩素消毒も例外ではなかった。塩素に耐性のある病原虫によって死者まで出てくることが明らかになってきたからである。

 その代表が病原性原虫のクリプトスポリジウム。このムシが入った水道水を飲んだ人はひどい下痢や腹痛を起こし、免疫能の低下した人の場合には死亡することもある。世界各国で被害例が報告されているが、最も甚大なのは一九九二年米国ミルウォーキー市の事件で、四○万人の市民が感染し、約一○○人が死亡するという悲惨なものだった。畜産排水や食肉工場か、あるいは下水処理場の放流水に含まれていたクリプトスポリジウムが水道水源に流れ込み、浄水処理を通過し、市内の蛇口まで給水されたのが原因とされている。
 日本でも1996年6月埼玉県越生町において水道水にこのムシが入り込み、町民の約7割にあたる8812人に下痢などの症状が現れるという被害が発生。また、1998年夏オーストラリアのシドニー市では水道水にクリプトスポリジウムとジアーディアが検出されたため長期間の給水停止を行い、約300万人の飲み水に多大な影響を与えた。どれも水道当局が浄水処理に失敗したからというわけでもない。強いて云えば、水源汚染に対する配慮が欠けていたのが最大の原因だろう。

 厚生労働省は越生町の事件の後、すぐさま対策指針を打ち出した。指針では、汚染のおそれをどう判断するか、予防対策はどうしたらいいのか、発生した場合の応急対応はどうするか等についてまとめている。ところが指針の対象が水道事業体に限定されているため、肝心の水源対策や保健衛生機関での対応、そして消費者はいったいどう対処したらいいのかという大事な話がそっくり抜け落ちてしまっている。

 塩素には強いクリプトスポリジウムも熱には弱い。したがって、もしクリプトスポリジウムによる汚染が濃厚なら、なま水を飲まないこと・必ず加熱してから飲むことを消費者に勧める警報が先決だ。ところが、誰がいつどういう状況でその「なま水警報」を出すのか、その肝心かなめなことが厚生労働省の指針ではわからない。また、「応急対応の実施」とか「広報」という項目があっても、その優先順位がはっきりしない。水道事業者は他の関係部局と協力してがんばってねと言うだけでは何の役にもたたぬ。予防対策は浄水処理に関するものがほとんどで、水源に関するものは関係機関との協議を示唆するのみ。水道の問題は水道で始末をつけるというわけだろうが、ここにも水源軽視の姿勢と浄水処理で何でも対応できるという傲慢なパラダイムが顔をのぞかせている。

 米国疾病管理予防センター(CDC)の作成した対策マニュアルでは、発生時の対応手順や広報指針、そして医療機関、老人ホーム、ホテルや飲食店などの商業施設、一般消費者などそれぞれに対する対応指針が明記されている*3)。日本の指針とは異なり、クリプトスポリジウムの感染症対策が水道サービスに限定されていない。当たり前といえば当たり前の話だが、日本の指針ではこの公衆衛生学上の基本的視点がない。そんな場当たり的作文指針で次の被害が乗り切れるかどうか。筆者は懐疑的である。

放置される鉛汚染

 老朽化した水道管からの鉄錆や有害物質の溶出、管路内に蓄積した汚濁物質からの異臭や異物、そして給水装置とよばれる管や器具からの汚染・・・。水源や浄水場以降の地点にも蛇口の水道水に影響を与える要因は多く存在する。ところが、現在の水道パラダイムでは浄水場での処理に重点が置かれているため、処理場以降での汚染源が軽視されがちとなる。

 水道当局はオゾンや活性炭ろ過そして膜処理などの『高度処理』で「安全でおいしい水」になるという説明を行うが本当だろうか。いくら高度な処理を実施しても浄水場を出てから蛇口にいたるまでの間の汚染源には対応できないのは、誰が考えても明らかだ。だから、『高度処理』で「安全でおいしい水」になるというのは文字通り話半分であると考えるべきである。しかし、水道当局はそのことを消費者に伝えようとはしていない。

 とくに注意すべきは給水装置からの鉛汚染である。鉛は神経系への毒物で、国際ガン研究機関IARCの分類では2B。つまり「ヒトに対して発がんの可能性がある物質」である。また妊婦や幼児に対してはカルシウムの代謝阻害を起こし発育障害に繋がることもわかっている。現在ではいろいろな用途での鉛の使用が控えられてきたため、人体への鉛汚染源として水道水経由の危険性が相対的に上がってきたことにも注意してほしい。

 日本の水道法における鉛の飲料水質基準は、0.05㎎/ℓ(1992年12月の基準改定前は0.1㎎/ℓ)。国際保健機関(WHO)の0.01㎎/ℓや米国の0.015㎎/ℓ(目標はゼロ)に比べると約3〜5倍も緩い。基準改定当時鉛の水道管がたくさん残っていたこと等を配慮した妥協の産物であり、消費者の健康を二の次にした基準である*1)。
 これでは厚生労働省もまずいと考えたのか、「長期目標値を0.01㎎/ℓと設定し、おおむね10年間に鉛管の敷設替えを行い、鉛濃度の段階的な低減化を図る」とし、業界や水道事業体に10年の執行猶予を与えた。

 1996年現在、送配水系で残っている鉛管の延長は約46km。静岡、群馬、神奈川、富山、福井、大分などの対応が遅れているが、本管の鉛管の交換についてはかなり進捗した。しかし、話はこれで終わらない。鉛は消費者側の給水設備からも溶け出してくる。その総延長は数万キロにも及ぶものと推測され、水道本管の鉛管延長よりもはるかに長いものである。

 化学系の人には常識だが、つい数年前まで塩化ビニル樹脂管の安定剤・改質剤には鉛化合物が使われていた。また、金属加工系の人には常識だが、黄銅や青銅の給水金具の製造には今でも鉛が使われている。これら鉛含有量は重量比で2〜5%にもなり、設備の経年劣化とともに家庭内給水設備の至る所から鉛が溶け出す。ところが、現在の水質試験では開栓後しばらく捨て水した後にサンプルするため、最も濃度が高くなる滞留水の鉛汚染は一切わからない。したがって、多くの水道当局は鉛汚染の存在すら把握しておらず、危険性の認識すらないのが実情ではなかろうか。

 数少ない例外として大阪市水道局の報告をあげておこう。大阪市内一般家庭における蛇口開栓直後の鉛濃度は最高で0.168(夏期)、平均でも流水サンプルの二倍の0.02㎎/ℓである*4)。つまり、普通のサンプルでは水質基準以下だが、開栓直後の鉛濃度は国際基準や来年登場する改定基準をクリアできていない。開栓までの滞留時間を考慮すると、朝一番や長期に留守をした後の開栓直後の水ではさらに危険な濃度が検出されるだろう。

 関連業界も手をこまねていたわけではない。1992年の水質基準改定以降、塩ビ管業界は安定剤の鉛を有機スズなどに変更してきた*5)。給水器具については対応が遅れ気味だったが、特殊なコーティングで鉛を封じこめた水栓器具の販売等も昨年からやっと始まった。しかし、過去に設置された鉛入り給水設備はそのままであり、ほとんどの家庭では鉛の汚染源が放置されたままである。

 水道本管に鉛管がなければ、家庭内の給水設備に滞留する分を捨て水することによって鉛濃度は1桁程度減らすことができよう。そのためには危険情報の開示や関連広報が必要なのだが、国も水道事業体も真剣に取り組まないため、ほとんどの消費者は危険性の存在すら把握していない。

 給水設備は消費者のもの、水道メーターを通った後の水は消費者の自己責任であるという当局側の抗弁もある。これでは、金さえもらえばあとは野となれ山となれと云うのに等しい。水道当局が本当に「安全でおいしい水」を消費者に供給するというのなら、給水系の鉛汚染についての危険情報の提供を徹底することと、鉛入り塩ビ管や鉛入り給水装置を長年にわたって消費者に使わせてきた行政責任を明確にしてほしいものだ。

非常時の水、そして雨水

 現在の水道パラダイムの破綻は阪神・淡路大震災の時にも明らかになった。燃えさかる炎で家が焼き落ちようとしているのに消火用水が出ない。消防士も住民も呆然と眺めているしか術がなかったではないか。非常時にも水を提供できるとうたっていた水道が生活用水どころか消火用水にも窮するという有様だったことを思い出していただきたい。

 『管路による供給』しかない現在の水道のサービスでは、管路が破壊されると当然ながら水は送れない。こんな単純な理屈がわからないのが日本の水道で、今なお管路を補強し、地震に強い水道を目指すことで次の艱難を排除しようと考えているようだ。これもまたパラダイムの危機的末期的症状である。

 幸い、消防当局や一部の医療機関は形式だけの水道サービスに見切りをつけ、ビルの給水槽と連係をとったり、自己水源を設けたりすることにより、水道に頼らない非常時用水を準備しつつある。賢明な手段だと云うべきところだろう。

 量についてのパラダイム崩壊は、実は非常時用水以外の局面でもはじまっている。たとえば、消費者は飲み水の水質をより良質なものを望む一方で、トイレに飲み水と同じ水質の水を流すことの愚かさにも気づきはじめている。ところが、現在の水道サービスは一元給水で飲み水とトイレ水洗水を分けることができない。現在のパラダイムでの解を求めるならせいぜい用途別給水だが、配管の多重化はコスト的に見合わないから現実的ではない。つまり、解けない課題になってしまう。これまた袋小路だ。

 飲み水をトイレに流しても水道料金が比較的安価な場合は消費者は納得もしよう。でも水道代が高くなれば話は別だ。その上、環境問題や資源の有限性、エコロジーが時代のキーワードになってきた現在、値段だけの問題では話が済まなくなる。消費者の中にはエネルギーや資源の浪費を望まず、水道水以外の水を生活用水の一部として使おうという動きも出てきていることに留意してほしい。
 
 仮にトイレ水洗水を雨水などで充当したらどうなるか。日使用量の約2割がトイレ用水として、その分を減らすことができる。その結果、相当する水源の手当、浄水処理や送配水に係るエネルギーに薬品コストすべてが削減可能になる。雨水利用は降雨流出の時間差作りという防災的な面もあるし、無駄な水源ダムなどの新規開発もいらなくなる。これを水道事業の衰退つまり水道関係者のメシのタネがなくなる動きとみるようなら水道の未来は暗い。
 
 雨水は天水である。需要サイドでの雨水利用の推進はいずれ水源への関心に繋がっていく。そうなれば、水道当局が固持するパラダイムの脆弱性は今よりいっそう明らかになる。その時はもうそこまで来ているのだ。

水道のパラダイムシフト

 消費者の水道離れは質だけでなく量についても既に始まっている。おまけに『浄水処理+管路供給』のパラダイムでは新たな病原性微生物問題や給水装置での汚染問題に対する解が難しい。水道が非常時には役に立たないサービスであることも世間に明らかになってしまった。

 莫大な水源開発費、『高度処理』コスト、老朽化設備の維持管理費や修理交換費の増大・・・。地方自治体の「財政再建団体」化に伴い、水道財政の破綻はもうそう長くは隠しきれないはずだ。それでもまだコスト意識なしに消費者ニーズとも乖離したまま水道事業が続けられるものだろうか。無理だろう。一部民営化で乗り切ろうという動きもあるが、現在のパラダイムにしがみつく限り、日本の水道を情報通信のインフラとして狙っている外国企業に買収されてしまうことも十分あり得る。

 もし日本の水道が生き残る道があるとしたら、まず現在の水道パラダイムを変えることを考えなければならない。それには3つの要件がある。ひとつは水源環境の保護保全を水道事業の基本に据えること。二番目は管路供給に限定しない水道水のサービスを作り出すこと。瓶入りの水でも浄水器関連事業でもいい、とにかく多様な飲み水需要に責任を持てるビジネスモデルを作り出すことだ。三番目は消費者に対する情報開示を進め、信頼回復に努めること。消費者ニーズを無視した「水配るぞ、さらば金払え」式の殿様水道商売では、サービス産業としての水道の未来はない。

 水道事業体がパラダイムシフトできるかどうか。日本の水道が二一世紀にも存続できるかどうかは、そこらにかかっているのである。

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参考文献
*1 有田一彦:あぶない水道水、三一書房、1996
*2 松浦八洲雄:これからの水道を模索する、水道事業研究第121号、大阪市水道局水道事業研究会, 1988
*3 CDC: Cryptosporidium and Water :A Pubulic Health Handbook 1997
*4 上口浩幸ほか:浄水pH調整による水質影響、水道事業研究第136号、大阪市水道局水道事業研究会, 1996
*5 辻本英雄:非鉛性安定剤の最近の活用技術、プラスチックス、vol.50, p.39, 1999