2年目の3.11

3.11

ume311先週土曜日、京都の馴染みのレストランで食事を堪能し、表に出ると、四条通りは脱原発デモの真っ最中。連れ合いの強い要望もあり、半ばホロ酔い加減でデモ行列に紛れ込み、市役所までテクテクテク。久しぶりに「原発反対」と往来で声を張り上げてきました。

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偶然紛れ込んだ、ひさしぶりのデモ歩き。京健労さんの大人数参加が素晴らしい。退職者教員団体さんもご苦労様。最後の隊列は「だいなし」の上杉さんのラップで先導された市民派グループの方々で、なかなか賑やかでした。デモの世話役をやっていらした、反原発めだかの学校の佐伯さんもお元気そうで何より。

一番良かったのは道筋の市民の方々が好意的な視線だったこと。いっしょに反対の声を上げてくれる人まで。嬉しいなぁ。みんな、心の中では原発反対なんだな~と思いましたね。

なのに、なぜ自民党などは原発再稼働に動くのか。原発がいったん事故れば、取り返しがつかなくなるというのは全国民の目に明らかになったのではないのか!

原発が再稼働できないから電気料金値上げ査定をしなければならなくなった等と嘯いたのは、電気料金審査専門委員会の安念潤司委員長。彼が政府審議会の委員長でいることに唖然としますが、どうもお金と命の違いがわからないみたい。

 経済産業省の電気料金審査専門委員会の安念潤司委員長(中央大法科大学院教授)は、関西電力と九州電力の料金値上げの査定方針を取りまとめた2013年3月6日の会合で、「原発を再稼働させるのは適法。国が再稼働してはいけないと言うほうが違法だ」との見解を示した。時事通信が伝えた。「原発をすぐに立ち上げればコスト増にならず、われわれもこういうこと(電気料金の値上げ査定)をやらずに済んだ」と強調した。
安念委員長は「原子力規制委員会が審査して、再稼働を認めるなんてことは、まったく理解できない。そのような審査権は法令のどこにもない」と指摘。そのうえで、「電力各社は直ちに再稼働していいというのが私の考え。にもかかわらず、何となく原発を止めていなければいけないのは、法治主義の大原則に正面から反する」との持論を展開した。(J-CASTニュース 2013/3/7)

生きていれば、いろんなことがあります。良いコトもあれば悪いコトもある。事故に遭ったり、病気になることだってあるでしょう。

地震や津波の被害も筆舌に尽くせないほどの大規模で深刻なものですが、一生の時間ではあるい意味一過性のモノなので、自暴自棄にならなければ、周りの応援などを支えに復帰復活は可能です。でも、原発事故はどうでしょうか。

残念ながら、放射性物質の影響は数万年数十万年続きます。このスケールは個人が持つ時間幅を大きく超えてしまうので、元の場所に戻ることも元の生活を取り戻すこともかないません。つまり、個人個人の時間スケールで見れば、ほぼ永遠に個人の資産や土地、人生を奪い取ってしまうのです。

永遠の収奪とは最大の人権侵害。そんなものは原則的に行ってはいけないし、「科学技術の発展」とか「エネルギー政策」等という言辞でオブラートするような人たちに私は怒りを感じます。原発反対とはそういう観点からも妥当な実効性のある考え方なのです。

有害物質の研究者の端くれとして、私は「予防原則」の考え方を採用してきました。もちろん、この考え方は少数派で関係研究者がすべて採用しているわけはありません。でも、ヒトが安心して生きていくためには諦めなければならないことがある(後注)、何故そういう発想が浮かんでこないのか。脱原発とは決して後ろ向きの考え方ではなく、進んで選び取る人類の選択肢の1つなのだとなぜ思わないのでしょうか。2年目の3.11に際し、そんなことを考えました。

ume309

〔後注:追記)
念のために云えば、予防原則では「諦めなければならない」という云い方はまずしません。ある種の有害性については複雑な要因がたくさん関与しており、それら情報不足により将来影響が明快にはわからない、ましてやいくら考えても「想定外」が出てくる、そんなことを併せて考慮するなら、受忍度を超えるような、あるいは時間的空間的スケールがあまりにも大きな影響があるようなモノについては使用の停止や利用の禁止あるいは事業の廃案廃棄を念頭におこう、というものです。推進派にとっては「諦める」ことになるので、彼らに合わせて「諦めなければならない」と書きました。したがって、「諦め」は後ろ向きの選択肢ではありません。この件、読者からご質問ご指摘があったので書き加えます。