自己責任を求められるべきは誰か

.opinion 3.11

ume306b以前イラクへボランティアを行っていた人たちが拉致監禁された時、この国のメディアは彼らの自己責任を喧伝し、まるで捕まった者が悪いかのように非難しました。危険な戦争地域で活動していたのですから、彼らが自己責任を問われるのは当然ですが、それなら先日のアルジェリアの拉致監禁殺害事件の時、なぜ自己責任を指摘されなかったのか。マスメディアは二枚舌なのか。

自己責任云々をいうなら、ついでながら原発立地県の原発再稼働の推進姿勢にも触れておきましょう。

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自己責任か、そうではないか、その線引きはどこにあるのでしょうか。私思うに、個人や団体が納得づくで行動している限り、その結果についてはすべて自己責任。なのに、一方では取り立てて責任を問いながら、別のケースではそうでないとすると、前者は非難の対象、後者には何か別の意図が隠されていると考えた方がいい。

先のボランティアたちは米国のイラク征服に加担する国家権力にとっては邪魔な存在。一方、アルジェリアにいる日揮社員は国家エネルギー戦略の最前線にいる者たちでした。その立場の違いが、自己責任を問う基準になったのでしょう。とすると、自己責任という言い分は権力が都合よく使い分けているだけ。いわば本来の意味を悪用した用法だというべきところです。

ややこしいのが、その使い分けあるいは悪用を広めているテレビや新聞などのマスメディアだということ。原発同様、ここにも腰巾着メディア(積極的に云うなら大政翼賛メディア)の問題が潜んでいますが、テレビや新聞にはよくよく注意しておかないと私たちはいつのまにか洗脳されてしまいそうです。

ついでながら、自己責任といえば原発再稼働のことにも触れましょう。

少し古くなりますが、1月29日福井県の西川知事は安倍首相に対し、原発ゼロ方針の抜本的見直しを求めました。それを受けて、つい最近安倍首相は原発推進の姿勢を打ち出しています。

福井県の西川一誠知事は29日、安倍首相と首相官邸で面会し、民主党政権時代の「2030年代の原子力発電所稼働ゼロ」方針について「国民の納得と理解を得る形で抜本的に見直してほしい」と述べ、原子力発電を中心としたエネルギー政策への転換を求めた。
安倍首相は、原発稼働ゼロ方針について、「安倍政権ではゼロベースで見直す決定をしている」と答えた。  西川知事は、高速増殖原型炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)などでの将来を見据えたエネルギー関連の研究についても、「予算や人員を一層強化し、研究実績のある福井県内で展開してほしい」と要望した。
(2013年1月29日13時08分  読売新聞)

あぁなんてこった。東電福一原発事故はどこへやらで、活断層の疑いのある場所に原発が建っていてもお構いなし、日本のエネルギー政策のためには原発推進は必要等と主張する福井県知事。原発関連資金で食いつなぐ自治体の長ならでは言い分なのでしょうが、日本の社会にとっては無責任の極みでしかありません。また、彼のイスを支えているのは福井県民であることを考慮するなら、知事の暴言は福井県民の総意と同じようなものです。

原発事故は起こらないで欲しい、という期待や希望は原発の安全性を担保しません。一度深刻な事故が起きれば、私たちの生活を根底からダイナシにします。以前からそう主張する人たちが少なからずいたのに、それら意見を無視してきた結果が今日的状況。そのことがフクシマで顕在化しても、いまだに原発推進を目論む人たちがいることに私は絶望的な不信感を覚えてしまいます。

もし次の原発事故が福井で起きたら、国はまたしても「想定外」を言い訳にし、税金を無尽蔵に注ぎ込んでフッコウ事業を興すのでしょうか。事故の危険性を放置したまま再稼働せよと主張する福井県知事とそれを支える県民に、皆さんは援助の手を差し伸べるのでしょうか。

私はいやです。それこそ自己責任の議論をやっていただきたい。福井県どころか日本の未来を破壊するような原発を推進した、福井県民の自己責任で事態を収拾して欲しい。福井県知事の言い分を聞いた時、私は怒りとともに強くそう感じました。このこと、書き忘れていたので、遅ればせですが一筆啓上です。

Soon blooming

さてさて、だんだん春めいてきました。わが家の梅も芳しい香りとともに花びらがだんだん開花。季節の変わり目は温度変化が大きくなるため体調には何卒ご注意下さい。ではまた。