発がん分類2B

Water

北海道岩見沢市や三笠市など5市町村で構成する「桂沢水道企業団」の水道水から、19日午後「発がん性が疑われている有害物質ジクロロメタンが水道水から検出された 」と報道されました。浄水場内の補修工事で当該物質を使っており、それが水道水に混じったのが原因とのこと。
でも、私が気になったのは別のことでした。毎日新聞 インターネット版2月20日の中に、この物質はIARCの2B分類であり、「人に対して発がん性があるかもしれない」とありましたが、これは誤解を招く説明です。…


国際がん研究機関(IARC)は物質について、4つの分類を行っています。グループ1は、「ヒトに対して発がん物質であるもの」、グループ2はさらに2つに分類され、2Aが「ヒトに対して発がん性がある可能性が高いもの」、2Bは「ヒトに対して、おそらく発がん性があるもの」で、どちらも発がん性が疑わしいものです。グループ3は「ヒトに対する発がん性によって分類することができないもの」。これは、動物やヒトに対するデータが十分でないために区分けされたものです。最後のグループ4は「ヒトに対する発がん性がないと考えられるもの」となっています。

グループ2は、発がん性が疑わしい物質のことなので、問題の2Bを「人に対して発がん性があるかもしれない」と単純化するのは少し奇妙な表現です。むしろ、グループ3こそ、その説明が適当ではないかと私は考えます。

この問題は、まず英語表現を日本語にする時に発生する翻訳上の疑義です。問題の2Bは、

The agent(mixture) is possibly carcinogenic to humans.…

となっており、それに比して2Aは、probably carcinogenic to humans.…。つまり、BとAの表現上の違いは、possible と probable だけ。IARCの定義説明を読むと、どちらもヒトに対しては発がん性が疑われる物質なのですが、動物実験と人体への(不幸な過去の)経験の有無如何によって、AかBかの違いがあるだけ。それを定義文において、possible と probable で差異をつけたというわけです。

実験動物では発がん性は認められた、ヒトに対しても疑わしい、でも、ヒトに対しては十分なデータが得られていない、だからヒトに対して発がん性があるとは断言できない、これがIARCの2Bの意味するところ。これをシンプルに「人に対して発がん性があるかもしれない」としたなら、どう受け取られるでしょうか。あるかどうかもわからない、と考えるのが普通ではないかと私は考えます。これでは、IARCの趣旨が活かされません。

ではどう訳すか。私なら、「ヒトに対して発がん性が疑わしい(2B)」とします。2Aなら、「ヒトに対して発がん性が非常に疑わしい」ですね。旧厚生省の命を受けて翻訳した日本水道協会の訳では、そのまま直訳して「「ヒトに対してたぶん発がん性の可能性がある…」としていますが(WHO飲料水質ガイドライン 第二版第一巻  (社)日本水道協会 1995)、この変な訳でも「人に対して発がん性があるかもしれない」よりも、ずっとマシ。少なくとも新聞では、水道協会の訳を使ってほしかったと私は思います。

問題となったジクロロメタンの汚染は、たしかに一過性のものでしょう。でも、問題の有害物質についてまで評価を軽んじるのは科学的に問題あり、です。毎日新聞はこの訳をどこで手に入れたのか。自社訳なのか、それとも誰か専門家に尋ねたのか、それとも問題の水道当局に聞いたのか。もし、専門家が説明したのであれば、その人の専門性や作為を問題にすべきところです。

なぜこのことに拘るのかといえば、実はこの possible と probable の問題は、発がん性論議の中で結構登場する議論なのです。この違いを知っていてわざと恣意的に、「かもしれない」などとする研究者には要注意。警戒して、その意図を考えてみなければなりません。

(追記 2/22)

the American Heritage Dictionaryによると、

probable; 1. Likely to happen or to be true. 2 . Relatively likely but not certain

possible; 1. Capable of happening, existing, or being true. 2.Capable of occurring or being done. 3. Potential

となっています。

つまり、probableは起こりそうなこと、あるいは本当らしいことを示し、possibleは起こる可能性があることを示すという意味合いです。どちらも起きることを想定した云い方ですが、その起こり具合の可能性の大きさで区別しています。

これを日本語で「起きるかもしれない」とすると、(直訳的にはそういうこともできると抗弁したとしても)起きないことをも想定とした云い方となりますから、趣旨が違ってきます。これが先の私の言い分です。