モネの眼

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光のダンスの続きです。
モネがいつ頃から「印象派」的な絵を描いていたのか。
美術史では、1873年の「Impression, Soleil levant」を含む作品を翌1874年に発表した時をもって印象派の誕生としています。「Impression, Soleil levant」つまり、「印象、日の出」で、このタイトルが「印象派」の語源みたい。

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Impression,Soleil levant マルモッタン美術館の絵画集から撮影

「Impression, Soleil levant」はパリ西部にあるマルモッタン美術館で観ることができます(上の絵)。オルセーやルーブルのように混みませんから、ゆっくり堪能できますよ(お薦め)。

庭園の夫人たち

実は、モネだって最初は普通の絵描きのような絵を描いていました。たとえば、オルセーにある1866年の「庭園の夫人たち」は、観てもわかる通り、のちの明るい色使いの萌芽はあるにしても輪郭くっきり。これがなんとまぁ、当時風の色使いではないという理由で画壇から拒絶され、モネの経済的困窮を招いたらしい。

時代は当初モネを受け入れなかったというわけです。でも、だからこそ今の栄光ありともいえるのは、ある種の「塞翁が馬」。

時代といえば、写真が絵描きから肖像画という「商い」を奪っていったのが同じ頃。写実画を描いても写真と比較されるのは面白くないでしょうし、自分にしか描けない絵を作りたいと思うのが絵描きたるクリエーターの宿命です。

当時モネと同じことを考え悩み苦しんでいたのが、セザンヌやピサロ、シスレー、ドガ、ルノワール、モリゾ等々。彼らが一同に会して発表したのが先の1874年の展示会。そして、評判になったモネの「印象」という絵のタイトルが、その後の彼らの運命を大きく変えていくことになったのです。

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ルーアン大聖堂 快晴… 画集から撮影

ところで、モネといえば「睡蓮」が有名ですが、光の変化を追跡した作品の圧巻は、といえば「ルーアン大聖堂」。パリの北西約100kmにあるルーアン、そこの大聖堂の前に陣取って、晴天曇天、朝から晩まで考えられる光のバリエーション毎に30枚ほどの作品を作り出しています。そのうち、5枚はオルセー美術館にあるのでご覧になった方も多いのではないでしょうか。

幸運にも私はこの大聖堂を実際に見たことがあります。1988年仕事でたまたまルーアンに行く機会があって、フランス人に案内されて街をぶらぶら。ジャンヌ・ダルクが火あぶりにされたという広場を横目で見ながら街路を進むとルーアン大聖堂に突き当たりました。

視野が開けた先に見えた大聖堂はモネが描いたものとそっくり同じ! 

じゃないな、モネが描いた大聖堂が、ホンモノよりもずっと印象的な証拠なんでしょう、きっと。

ちょうどお昼の強い陽射しに当たる景色と、それが時々雲で遮られるのとの2つしか眺められませんでしたが、モネの感激した気持ちも少しわかるような感じ。忘れられない時間の1つです。

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さてさて、私たちはいったい何を見ているのでしょう? 光の当たり方は時間とともに変化するし、色合いだって変わってきます。その反射が眼に入って物体を認識するというのが生理学の教える所ですが、脳の働きが介在する限り、頭の中で見える景色は存在するモノとは違ってきます。大聖堂を前にしてモネがアリス夫人に送った手紙の中に、「毎日、今まで見ることができなかった何かを発見する。なんてむずかしいのだろう」というのがありますが、あぁ、その通りだ、モネでさえそうなのか、素直なヒトだなぁと相づちを打ってしまいます。

別の云い方をするなら、同じ景色をみても皆が同じものを見ているとは限らない、ということ。このことを思い知らされたのが、私にとっての3.11以降の世界。時を相前後して、写真で印象派の絵画みたいなものを映し出せると気づきました。ほとんど脈絡のない話に聞こえるかもしれませんが、私自身ではきっちり繋がっています(苦笑)。私にとってモネら印象派の絵画とは、「あなたはこんな風に見えますか?」と問われているような気がするのです。

もう1つ。ある有名な絵画に関する個人的な疑問が昨年解けました。それは、見えている空間を意図的にいじることで観客の印象を強化することの可能性を教えてくれたのですが、これもまた、見えることの本質に迫るものでした(続く)。

〔参考文献)
・オルセー美術館 印象派・後期印象派名品集(1987年版)
・布施英利「モネの”眼”診断書」他(芸術新潮 1992年11月号)