葬式仏教

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終活なんておやめなさい (青春新書プレイブックス)世はお盆。お墓参りをする人も多いことでしょう。でも、本来仏教では葬式は勧めていませんし、お墓は作りません。だから、お墓参りなどというものはなし。
なのに何故お盆やお墓参りが今の時代にあるかといえば、葬式仏教と化した宗教集団と権力層による洗脳によって(口悪く云えば)庶民が誑かされているというわけです。


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仏教学者でもない私の言い分なんか信用できるかという人も多いでしょうから、宗教専門のひろさちやさんの『終活なんておやめなさい』を引きながら、この国の葬式仏教のアコギさに触れてみましょう(以下、出典はすべてこの本)。

まず、お釈迦様は葬式を推奨していません。弟子に対して、葬式にかかずらうなと諭しています。それがお釈迦様の教え。教えに忠実な南都六宗では現在でも葬式を行わないそうな。せいぜい、やりたい人はやったらいい程度でしょう。

次に、香典。お金を包むようになったのは大正から昭和にかけてのことで歴史は浅いとのこと。葬式をしなければ香典はありません。

戒名・位牌・お墓についてはどうでしょうか。ひろさんの説明によると、死者は在家のままで仏さまに浄土へ連れて行ってもらっているのだから、出家の証がなぜ必要になるのか、俗名のままでいいじゃないかとのこと。なるほど。また拝むのは位牌ではなく仏様なのだから意味なし。仏様の居場所は墓ではないので墓もいらないとのこと。この解釈はすっきりしますね。

評判になった『千の風になって』の歌詞に「お墓の前で泣かないでください。私はそこにいません」とありますが、まさにその通りだとひろさんは指摘しています。そこにいないのに墓参りとはいったいなんぞや?というのが健全な疑問でしょう。

hana1408bでは、墓を作って墓参りすることを推奨しているのは誰なのか。何のためかといえば、そうすることで関係者たちがメシを食えるから。つまり、お釈迦様の教えを曲げ、いかにも仏教の教えのごとく商売しているのが現在の葬式仏教というわけ。供養とは心の問題であってお墓でも墓参りでもないはずです。

そんなこんなで庶民は葬式仏教に大枚支払っています。これもまた隷属社会の1つの特長なのでしょうが、法然や親鸞が生きていたら卒倒しそうですね。

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こんなことを書き連ねていると、あることを思い出しました。私が教えを受けていた鈴木紀雄先生(滋賀大、生態学)がお亡くなりになった時のことです。

御遺志により、お葬式はなし、香典も受け取りませんとのこと。ご焼香も一切お断りだったので、出向いた人の中には不満や不信を感じた人もいました。鈴木先生の宗派は知りませんが、葬式なし香典なしがお釈迦様の言い分なら、さすが鈴木先生だなぁ、死しても筋を通すのは素晴らしいと改めて感心した次第。

とにかく常識を疑え、ということ。葬式やお墓は一度その意味や意義を考えた方がいいんじゃないでしょうか。

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